先駆者(高度経済成長の父)
厳しい現実の中で「大切なのは誰かが走り始めることだった」誰かが前へと走り始める。その疾走が成功すると、それが刺激となって時代の波のうねりが生まれてくる。「彼がいなければ日本の戦後の復興は5年は遅れた」とまでいわれた、知る人ぞ知る伝説的な名経営者がいた。戦後、彼は、他の鉄鋼会社よりも4〜5年も先駆けて日本中が驚嘆(きょうたん)した最新鋭の巨大製鉄所の建設を推し進める。日銀総裁をはじめとする周囲からは「時期尚早」「ぺんぺん草が生える」「絵に描いた餅」とまで罵倒されたが、それでも、彼が夢と理想を掲げて決断し本当に実行したことが、日本の戦後の復興と高度成長が始まる最初の引き金だった(伊丹敬之「高度成長を引きずり出した男」2015年10月22日)。 私が欧州留学を終えて、祖国日本に帰国したのは失われた十年、つまり、戦後最悪の超就職氷河期だった。ヨーロッパ某国の高等専門大学で徹底的に蓄積した、マルチメディアアート・アンド・マルチメディアサイエンス、及び、テクノロジーを、当時としては世界最新鋭とも言える技能を武器として、それらを、何処かしらの日本企業に導入する事を夢見て、何処でもいいから頼むから入れてくれと言わんばかり、三流企業だった東京新聞などの小さな事務所の前で立ち尽くしたものである。結局、行くあても無く、ふと、父親の書斎を眺めながらいわゆる日本の歴史の専門書を意味も無く読み始める。ありきたりの、信長だの、秀吉だの、家康だの、本当はそれだけの話だったのであるが。偶然、吹けば飛ぶようなほんの片隅の小さなコラムを発見し読み始める。コラムのタイトルは「面白いやつがおった」午前中の出来事だった。土光敏夫、松下幸之助、あるいは盛田昭夫や本田宗一郎らに匹敵する、戦後の傑出した経営者なのに、知られていない人物である。 https://masuki.fc2.page 増喜